よる

暗い闇に残るのは

淡い幻想と

悲しい願い

 

光は見えず、ただただ心は深みへ沈み

あなたの元へ飛び込みたいけど

あなたは遠く、私を見ない

君が何を考えているか

僕のことをどう思っているか

何も分からない。教えてくれ、教えろ。

 

僕自身、なぜ君を好きかなんてもはや説明できない。分からない。何故こんなにも君を追いかけるのか。

 

星空に浮かぶのは

僕の瞼から

出て行った君の横顔

 

天の川は君を横切り、君は、織姫と彦星の間にいる

あなたのところへ走りたいけど、天の川なんてひとっ飛びしちゃうけど、

結局は僕の思い違いなんだから。きっと溺れて終わりだ。

怖いよ、怖いよ。君が一言言ってくれれば、僕の悩みは全て解ける。君の瞳は全てを溶かすのだよ。

 

君はそれを知らない。

君は、こんな夜を知らない。こんな不幸な夜のことなんて、知らなくていい。幸せでいてくれ。

魔女

恋は、美しいものだろう。人が人を愛すことは、何にも変えがたい大切なことだ。

 

ただ時々、人は恋心に脅かされる。仮に男がある女に対して恋心を抱いたとき、そして更に恋心に脅かされてしまったとき、男は女のことを『魔女だ』と言うだろう。魔女というのは、魔法を使う女のことで、「脅かされる」状況のもとでこの言葉を使った以上、それはある種の恐ろしさを含んでいる。

 

注意しなければいけないのは、女がよっぽどハッキリした行動原理の持ち主でない限り、男がアホな勘違いで、そう思っていることがほとんどであるということだ。女の側は完全に普通通り振舞っているつもりでも、好いてしまっている男からしてみれば、それが引き金となって女を魔女だと思ってしまう節がある。

 

男は女を飯に誘う、遊びに誘う、何かにつけて一緒にいたがる。誘ってみてokがどうかは、先方の都合次第もしくは、先方の男に対するイメージ次第だ。ちょっとまず、後者について述べておく。もし男に対して悪いイメージ(ダサい、キモい等)を持っていると、例え都合がつこうとも一緒に行く気にはなるまい。もしそうでなかったら、特にイメージを持ってないとかあわよくば好きであるとかになるわけであるが、こんな時はほとんど都合如何で決着がつく。こういうわけだから、次のような状況が現れる。

男は女を、ある日付の映画に誘う。

   女は、ある友達に、その日付で遊ぼうとの旨伝えしことなりけり。しかしその友達、仕事のせいか、メッセージの通信の少しばかり遅れがちなる人で、女はその返答まだ貰えずして待っている。

したがって男は、そのことを知らされ、女とその友達の予定如何の決着を待つこととなる。長い間待つ。

   女の決着如何の知らせはない。しかし突然にして、女より、その日髪を切ったとの知らせあり!これいかにぞやと思ひつつ、調子に乗った返信をする。女、その調子に乗り合わせ、己の姿見を差し出す。

これ、天下一級の美しさなりけり。男、ひっくり返り、なんとかこの感情を伝えむと、!マークを多く添え、感嘆の意を表す。

そのまま女より返信なく日が過ぎる。

・・・

時はその日付となり、未だ音沙汰ないため男は悶々としていた。

   女より返信あり。その友達の仕事が早く上がれば遊びに行ける、つまりその場合に男との映画の話はおじゃんとなる、との旨。

即ち男、さらに悶々とし、その友達の仕事が遅くなれば!その女と映画に行けるのに…などと未だ行けるか行けぬかの狭間で身を凌ぐ。その女の美しき姿の見れる見れぬの狭間で悶える。

時刻迫る。女より返信なし。

時刻きたる。女より返信なし。これより決着は自動的、女およびその友人は都合つき、結局その2人で遊びたる。

男、燃え尽きぬ。

などとまあ、こんなことがある。これをどう解釈するか、に尽きるが、これで男が女のことをどのようにして魔女と呼ぶに至るかを探ってみよう。

 

まず注目すべきは、女より髪切りの情報を男へ与えたことだ。先に、女の男に対するイメージの話をしたが、仮に女が男に悪いイメージを持っていたとしてこんな事を果たして伝えるだろうか。そうとは到底思えない。しかも己の写真を送ったというのだからこれは上の主張のだめ押しになる。ここまででまず、男は女に対して安堵の念を抱く。俺のことを、嫌いではない、と思っている。次いで写真の件だから、なんなら女はその姿を見て欲しいと思ってるんでないのかと、男はきっと思う。これが勘違いである可能性は大だが、安堵の上にこの状況が加わると心境は完全なる信頼へと変わるのだから、まったく不自然なことではない。

 

そんな時に、突然の音信不通。友達と遊んでくれるのは何にも問題はないのだけど!一本くらい、一本くらい謝りの連絡を!と、半分は怒り、半分は裏切られたような哀しみに襲われる。それでいても男は、その前に送られてきた美しい姿と、無邪気な髪切りの報告に、胸を奪われている。

心の表面では裏切られている心地なのに、深い部分、いや、「悪いようになんて思ってない、多少は心を寄せて思ってくれているはずだ」という、良いように良いように考えるthe期待に支えられた確信は、揺るがない。

この、心の2つの部分の捩れは極めて大きい。なんなら無限大の捩れだ。男はこれにどう対処して良いかわからない。したがって最後の逃げ道として、女を『魔女』だと思う。俺を惹きつけておいて俺を哀しませる。俺は苦しい。だから、女は魔女だと。

 

先にも行ったように、女がよっぽどハッキリした行動原理の持ち主でない限り、女への恋心に落ちた男の大半はアホな勘違い野郎になっている。男が悲しむ原因となった、返信が遅かったり大事な一報が無かったりしたのは確かに女の不手際なのだが、彼女にとってはこの作業の重要性がさほど無かっただけなのかもしれない。

しかし。男がアホな勘違い野郎であることに、完全なる罪はない。むしろそうであって美しいと思うことさえある。男が女に振り回されるのは、もしかしたらいつの世もあるのかもしれない。好きであれば、女のことを第一に思った上で、しっかりと追いかければ良いだけのことだろう。理性にとらわれなさるな。本能に問いかけろ。それが男の使命だ!

群の表現

 

1.表現とはなにか
   群Gを考えよう。我々は線形代数のことはよく知っているから、群を調べるのにその性質が使えるとありがたい。そこで、まず線型空間Vを考えて、
Aut(V)={M ; V→V 全単射}
つまりVからVへの全単射全体をとる。これは、「写像の合成」という演算によって群構造を持っていることがわかる。


【証明】Aut(V)に対し, 結合則が成り立つことおよび単位元(単位行列)の存在は自明. 今, 全単射だから必ず逆写像を作れて, それはつまり逆元の存在を意味する.(証明終わり)

 

   そこで、GからAut(V)への準同型写像M、つまり
任意のg,h in Gに対してM(gh)=M(g)M(h)
を満たす写像を考える。

 

【定義】このように構成された(V,M)をGの表現という.

 

イメージは、図1にある。

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2.線型空間と、その部分空間
   群の表現論に立ち入る前に、線型空間(ベクトル空間ともいう)の話をする。Vを(K上の)ベクトル空間とし、その基底{Bi}を考える。あるM in Aut(V)はこの基底によって行列の形にかける。これを、行列の(基底{Bi}による)表現という。

さて、Vの部分集合Wを考えよう。これがさらに、線型空間である時、WをVの部分空間であるという。

 

【定義】Vの部分集合Wについて
任意のv,u in Wが, 任意のα,β in Kについてαv + βu in Wを満たす時, WをVの部分空間という.

 

ちなみに、{0}やVはVの自明な部分空間である。

 

   さて、部分空間は常に0元を持っているが、逆に2つの部分空間W1,W2の共通の要素が0元のみである時、新たな部分空間

W1⊕W2={v+u | v in W1, u in W2}

を考えることができる。これをW1とW2の直和という。これが部分空間なることは簡単に証明できる。

 

   線型空間Vが部分空間たちWiの直和になっている場合を考えよう。各Wiは線型空間だから、そこで基底が取れる。その基底たちをまとめてVで見ても一次独立だから、それはVの基底となる。この基底でAut(V)の元を表現するとどうなるだろうか。ぜひ自分でやってみてほしいが、Wiの基底は(当たり前だが)Wiで閉じているから、ブロック対角の形になるのだ。

 

3.既約表現、可約表現
   ここまできてようやく、表現が可約であることの説明ができる。

 

【定義】群Gとその表現(V, M)について, Vのある部分空間Wが
任意のw in Wが, 任意のg in Gに対してM(g)w in Wを満たすとき,
WをM不変空間という.

 

イメージを図2に付す。

 

【定義】群Gの表現(V,M)について, VのM不変部分空間がVか{0}でしかないとき, 表現(V,M)を既約表現という.
そうでないとき, 可約表現という.
さらに, VがM不変部分空間の直和でかけるとき, 完全可約という.

 

と言われとも何のことかあまり分からないので、もう少し説明する。表現が既約か可約かは、M(g)の形に如実に現れるのだ。

 

   前にも説明した通り、M(g)はVの基底を何かとることで行列の形に表すことができる。表現が可約であるとしよう。つまり、Vは非自明なM不変部分空間をもっている。さらに、

 

【マシュケの定理】有限群の複素数体上有限次元表現は、常に完全可約.

 

という超強力な定理があるので、普通に考えるなら可約な表現はすぐさま完全可約である。つまり、VがM不変空間の直和として表されることとなり、これは任意のM(g)がブロック対角になることを意味する。

 

   直感的な言い方でまとめると、群Gの表現(V,M)が(完全)可約であるとは、行列M(g)がブロック対角に分解できることである。

香り

スイーツを買おうと、夜11:00くらいのコンビニへ行った。ゆく道筋には、時間帯もあってほとんど人はおらず、少し怖いくらいだった。いつもなら賑わっている小学生の学習塾や広い公園も、人影ひとつなく、何か黒い影がサッと出てくることが頭の中で想像されると、少し自転車をこぐスピードが速くなってしまうような感じである。

 

ところが、コンビニへ着いてみると、まず停めてある自転車の数に驚いた。多いこと。一体どんな賑わいだろうかと店内へ入ってみると、大したものではなかった。さしづめ近所のアパートの住民が停め置いていったものだろうか。ともあれ、賑わいこそないもののコンビニの中にはちら、ほら、と客があり、中には複数人のまとまりもあって話し声が止むことはなかった。

 

僕がスイーツコーナーを眺めていた時、男女のアベックが店内へ入ってきてまっすぐスイーツコーナーへやってきた。僕は、すこし場所を譲ったが、スイーツコーナーからは離れず、つまりそこには僕とそのアベックがいる構図となった。アベックが何を話していたかなどは覚えていないが、女の方が僕に近かったのは確かだ。すると、ふと僕の鼻が香りに包まれた。見事なまでの、美しい、風呂上がりの香りである。女の側の、風呂上がりの香りである。

 

その女の髪は肩下までの長さがあり、結んでおらず、毛先は多少荒れ、艶やかなものではなかった。加えて、まばらに茶色に染めてあり、多少のやんちゃさが垣間見える様であった。

 

そんな女の見てくれを凌駕し、その風呂上がりの香りが僕の鼻を包み込んだ。その瞬間に、頭の中に、女の日常的部分を想起した。連れの男との日常が、深遠なる日常が、僕の想像によって思い起こされた。これに僕は驚いた。驚きのあまり、僕はどうしたらいいかわからなくなり、逃げ出してしまった。スイーツを取らず、別のコーナーへ足を向けてしまったのだ。

 

香りの脅威である。

空の色

雨が降った。梅雨であるから、なんの不思議もないが、ずっと青空を見れていない気がする。

 

昼の空を見上げたとき、どこまでも続く雲であった。それも、ずっと一様で、同じ白色がムラなく広がり、もはや空はもともとこんな白色なのではないかと思わせられた。

 

この白色無地の向こう側に青色の無限の世界が広がっていることをふと思い出すと、とても寂しい気がした。なぜだろう。青空はどこまでも繋がっている気がするが、白雲は全てを遮っている気がする。どこまでも続く白雲は綺麗な白だったが、そこまでしかない白である。その先の何もかもを遮っているような白である気がしたのだ。

 

青空は、私と遠くを繋いでくれるんだなあ。

 

梅雨になんだかブルーになるのは、雨が降るからだけでなく、雲の閉塞感もあるのだろう。

熱が出た。動けずに、寝転がっている。ポカリスウェットは買ってきたから死ぬことはあるまい。だけどやっぱり、寂しい。外は雷雨だ。

 

横になったり体をもたげたりしながら、夏目漱石の「三四郎」を読んだ。八話。小川三四郎と里見美禰子との間の、感情の妙があぶり出される。特に美禰子の側が心を寄せようとする。三四郎の方はもとより美禰子へ好意を寄せていたのだが、両者不器用故になんともうまくいかぬ様が描かれる。その、なんともうまくいかなさが、実に美しく感じた。

 

男女の妙だ。言葉のやり取りには、正解の範囲と不正解の範囲と、どちらとも言えぬ範囲がある。僕なんかはいつも、どちらとも言えぬ範囲にばかり身を置いてしまう。特に女の側の言葉に対する男の言葉にはいくつかの大事な決まり事があるらしく、よっぽど鈍感極まる男でない限りその処方箋は知っているものだろうが、知っていたとて当場で実行できるとは限らない。というか大抵の男はできない。往々にして後から、あの時ああ言っておけばなあ、と後悔したりするものだ。

 

 

世も末

夜中のテレビというのは、面白いものが多いけれど、あんまり遅くなりすぎるとそもそも番組が少なくなる。見るものが少なくなってくると、必然的に良質なものに出会う機会が少なくなり、そうなると、世も末な状況が訪れる。

 

何かするエネルギーもなく、ただテレビをつけて寝転んでいると、テレビの向こう側では水着の女がエッチなことを言いながら、おっぱいを揺らしていたりする。見ていて悪い気にはならないが、別に触れるわけでもないし、ただ画面の向こうで揺れられてもどうしょうもない。

 

世も末であるが、これが世の中なのだと思った。