少子化について。

データとして、子供の数が少なくなっているし合計特殊出生率は下がっている。これは客観的事実だ。

 

ここから個人の意見である。恐らく昔は、子供を産まなければという観念が多くの人に(表立ってないにしても)あった。ここで"恐らく"と言ったのは、この考えは、年上の(親世代の)人たちと話をしていて私自身が感じ取ったものから生じているため。前の時代にそのような観念があった主な理由を考えるにあたって柱にしたいのは次の項目である。

1. 家族構成

2. 情報

3. 固定観念

まず、1つ前の時代の家族構成は基本的には

親・兄弟・そして祖父母

というものだろう。特に親が長男であった場合はそのようになる。もし親が次男以降であっても、叔父(長男)が祖父母と同居しているという事実や、割と近くに親戚がいたことによって血の繋がりを感じる機会が多かっただろう。さらに重要なことは、それが"自然"であったことだ。

次に、昔は基本的に入ってくる情報というのは全て直接的な人づてであった。そして直接的に接触する人間というのは、じつはそう多くはないので取り寄せられる情報の範囲は限られる。そこで、やはり基本的な情報の範囲は家族親戚の繋がりが軸となる。

すると、人の持つ考えの幅は狭くなりがちであり、そこで生まれるのは固定観念である。もちろん当人はそのようには思っていないし、周りの人たちも"固定観念"だなんて認識しない。ただの常識となる。

さて、子供を産むということに対して、これらのことは極めて正の作用をする。「血の繋がりの意識・情報の狭さ・固定観念」その固定観念のうちに、「子供を産むべき」というものが自然に生じる事は想像に難くない。そして実はこれらの事は極めて自然な事なのだ。そりゃそうだ。人間はアリと同じではない。1人の人間は命を後世へ繋ぐために生きていると言って過言ではない。

 

対して今は、それに代わって「自分は子を産まなくても良い」という観念が支配的になってはいまいか。今の時代

1. 家族構成の基本は核家族で親戚達はバラバラ

2. モバイルデバイスSNSの発達により情報の幅が広大

3. ある種の(昔とは違った)固定観念の植え付け

が基本である。3つ目に固定観念と書いたが、人間は固定観念から逃れることは不可能であるから如何なる状況にあっても何かしらの固定観念が植え付けられていると考えるべきだろう。これらの状況は、交通手段やモバイルデバイスの発達といった技術と、女性参画などの変化を持った社会構造の発達によって生み出されている。もちろんこれらは各々の人間が生きていく上で"快適"で"満足のいく"ためのものである。そういうものが目指されるのは極めて自然で、社会的には「良いこと」とみなされるであろう。全員が幸せになって欲しいのだから。

全員が幸せになるためには「多様性」の認識が必要不可欠となる。さらにSNSのことを、匿名で意見を発せられることから、言いたいことを包み隠さず言える場と思っている人が多い。我々は多様性を認めなければいけないから、一個人の"快適"や"満足"のために発せられたSNSでの様々な主張に賛同する。それを「良いこと」だとする固定観念を持っているからだ。

 

このような現代の状況がなぜ「子供をうまなくてもよい」と思う所以となっているのだろうか。

子供を産むに伴って、それなりの犠牲を要することは周知の通り。まずは女性が身に大きな負担を擁しつつ子を身籠もる。さらに出産には大きな痛みを伴う。続いて家族が揃うとその中で育児、教育、躾、その他諸々の金銭を要する所業が待ち構えている。これらは人間社会の作り出した固定観念を子供に植え付けるための所業とも言えるが、実際それは子が人間社会で生きて行くためには必要なことである。

これらの事は、一言でいうと"大変"だ。大変だから「避けたい」と思う人がいるのは自然である。そしてその思いを世界に向けて発信できるし、その思いがその人にとっての"快適"や"満足"に繋がると考えるられるのだから、受信した多くの人々は賛同する。個人の"快適"や"満足"のためには子供など要らないという意見が、多様性のうちに容認され、賛同される。瞬く間にその情報は拡散され、、、多くの人が

自分は子供をうまなくてもよい

という意見に繋がる。自分の"快適"や"満足"のために。道がつながっていると聞かされた人間は、つながっているという根拠がなくともその道へ歩みを進める。

これは極めて妥当だ。しかし間違っている。なぜかは、考えて欲しい。