やりたいことの見つけ方

やりたいこと

が、あるかどうかで人生の色はだいぶ変わってくる。あるとdramaticに、無いとflatになるだろう。やりたいことがないと、向上心など生まれない。きっと明日は今日と全く同じである。そしてその1日を人生が終わるまで繰り返す。

今生きている人間全員がやりたいことを持っているわけではないだろう。仕事でさえ、金さえもらえれば良いという了見で続けている人も少なくないはずだ。

 

同時に、やりたいことを探すことは困難を極めるだろう。言ってしまえば、やりたいことなんてそのへんに転がっているわけではない。これは自分で掘り出すものである。どうやったら、やりたいことを見つけられるだろうか。

 

まず、なんでもいいからやってみる。人がやってることでも何でも、少しでも楽しそうと思ったことをかじってみる。それから大事なことは、かじったものを離さないこと。何かを始めたときは大抵楽しいものだが、しばらくやっていると必ず壁にぶつかる。ここで折れて離れていってしまう人が多すぎるのだよ。壁を幾度となく乗り越えていってこそ、自分のやりたいことが見え始める。壁を乗り越えることがやりたいことではない!乗り越えたずっと先にやりたいことが見え始めるものなのだ。

 

その過程で何が起きているかというと、自分との戦いである。自分という生き物は、すぐにflatへ逃げようとする。起伏の多いdramaticの道からは外れようとする。この傾向をいかに食い止めるかは、それこそ自分との戦いである。精神力である。

 

注意しておかなければならないことがある。すぐ上で、自分との戦い、と書いた。しかし、なりたいものやりたいことが燦然と目の前にあると、そんなこととは遥かに違う次元の情熱が沸き起こり、自分が奮い立つことがある。そのようなときは、まあ、それこそドラマのようなものだが、何も考えなくてもただ一心に突き進むことができる。しかしこのようなことは、稀であると思う。

 

やりたいことを見つけるために、自分探しの旅をする人がいる。自分探しの旅の本質は、どこかに行くことではなく自分と戦う時間を設けることにあるのだ。

 

やりたいことはそのへんには転がっていないが、きっかけはそこら中に散らばっている。そこら中にある雑草を見て、楽しそうと思えるかどうか。これは好奇心でしかない。楽しそうと思えば、そこから地中深くは掘り進める。汗をかきながら掘り進めるうちに、宝石にぶつかるのである。

少子化について。

データとして、子供の数が少なくなっているし合計特殊出生率は下がっている。これは客観的事実だ。

 

ここから個人の意見である。恐らく昔は、子供を産まなければという観念が多くの人に(表立ってないにしても)あった。ここで"恐らく"と言ったのは、この考えは、年上の(親世代の)人たちと話をしていて私自身が感じ取ったものから生じているため。前の時代にそのような観念があった主な理由を考えるにあたって柱にしたいのは次の項目である。

1. 家族構成

2. 情報

3. 固定観念

まず、1つ前の時代の家族構成は基本的には

親・兄弟・そして祖父母

というものだろう。特に親が長男であった場合はそのようになる。もし親が次男以降であっても、叔父(長男)が祖父母と同居しているという事実や、割と近くに親戚がいたことによって血の繋がりを感じる機会が多かっただろう。さらに重要なことは、それが"自然"であったことだ。

次に、昔は基本的に入ってくる情報というのは全て直接的な人づてであった。そして直接的に接触する人間というのは、じつはそう多くはないので取り寄せられる情報の範囲は限られる。そこで、やはり基本的な情報の範囲は家族親戚の繋がりが軸となる。

すると、人の持つ考えの幅は狭くなりがちであり、そこで生まれるのは固定観念である。もちろん当人はそのようには思っていないし、周りの人たちも"固定観念"だなんて認識しない。ただの常識となる。

さて、子供を産むということに対して、これらのことは極めて正の作用をする。「血の繋がりの意識・情報の狭さ・固定観念」その固定観念のうちに、「子供を産むべき」というものが自然に生じる事は想像に難くない。そして実はこれらの事は極めて自然な事なのだ。そりゃそうだ。人間はアリと同じではない。1人の人間は命を後世へ繋ぐために生きていると言って過言ではない。

 

対して今は、それに代わって「自分は子を産まなくても良い」という観念が支配的になってはいまいか。今の時代

1. 家族構成の基本は核家族で親戚達はバラバラ

2. モバイルデバイスSNSの発達により情報の幅が広大

3. ある種の(昔とは違った)固定観念の植え付け

が基本である。3つ目に固定観念と書いたが、人間は固定観念から逃れることは不可能であるから如何なる状況にあっても何かしらの固定観念が植え付けられていると考えるべきだろう。これらの状況は、交通手段やモバイルデバイスの発達といった技術と、女性参画などの変化を持った社会構造の発達によって生み出されている。もちろんこれらは各々の人間が生きていく上で"快適"で"満足のいく"ためのものである。そういうものが目指されるのは極めて自然で、社会的には「良いこと」とみなされるであろう。全員が幸せになって欲しいのだから。

全員が幸せになるためには「多様性」の認識が必要不可欠となる。さらにSNSのことを、匿名で意見を発せられることから、言いたいことを包み隠さず言える場と思っている人が多い。我々は多様性を認めなければいけないから、一個人の"快適"や"満足"のために発せられたSNSでの様々な主張に賛同する。それを「良いこと」だとする固定観念を持っているからだ。

 

このような現代の状況がなぜ「子供をうまなくてもよい」と思う所以となっているのだろうか。

子供を産むに伴って、それなりの犠牲を要することは周知の通り。まずは女性が身に大きな負担を擁しつつ子を身籠もる。さらに出産には大きな痛みを伴う。続いて家族が揃うとその中で育児、教育、躾、その他諸々の金銭を要する所業が待ち構えている。これらは人間社会の作り出した固定観念を子供に植え付けるための所業とも言えるが、実際それは子が人間社会で生きて行くためには必要なことである。

これらの事は、一言でいうと"大変"だ。大変だから「避けたい」と思う人がいるのは自然である。そしてその思いを世界に向けて発信できるし、その思いがその人にとっての"快適"や"満足"に繋がると考えるられるのだから、受信した多くの人々は賛同する。個人の"快適"や"満足"のためには子供など要らないという意見が、多様性のうちに容認され、賛同される。瞬く間にその情報は拡散され、、、多くの人が

自分は子供をうまなくてもよい

という意見に繋がる。自分の"快適"や"満足"のために。道がつながっていると聞かされた人間は、つながっているという根拠がなくともその道へ歩みを進める。

これは極めて妥当だ。しかし間違っている。なぜかは、考えて欲しい。

告白の方法

いよいよ自分の想いを相手に伝えるとなったとき、告白、をすることになるだろう。そんなとき、どんな伝え方で何を言えば良いか、そんなの誰でも分かるだろうと思われるかもしれないが、実はそうでもない。なにせ、告白は緊張する。改めて何に注意すべきかを指摘しておくべきだろう。

 

ただし、注意すべきことは極めて単純明快である。それは「伝えたいことを伝える」ということだ。

 

「好きだ」ということを伝えなければならない。加えて「付き合って欲しい」という願望をも伝える必要があるかもしれない。

 

ということは、

・好きです

・付き合ってください

という文言は絶対要る。この前後にどういう言葉を配置するべきだろうか。

 

最も危ないのは

・自己保身に走ること

・余計な気遣い

である。告白とは一大博打なのだから、もしかしたらうまくいかないかもという懸念から、自己保身に走ってしまうことがあるだろう。しかしこれは、極めて利己的なものだ。告白において利己的になって良いのは、先ほどの「伝えたいことを伝える」ことについてのみである。それ以外の利己は、相手に違和感を与えることになる。また、余計な気遣いは、これも結局利己性からくるものであるが、「伝えたいこと」をブレさせる恐れがある。相手を想っているからこそそういう気遣いが生まれるのは確かだが、告白の段では、ガツンと行け。

 

ついでに言うなら、伝えいことをより効果的に伝える必要もある。そのためにはやはり、「好き」というワードを装飾することだ。

「好きです」に加えて、「本当に好きだ」とか「会うたびに好きになる」とか何か並べれば良い。

 

ともかく、伝えたいことだけをしっかり伝えろ。思いを込めて。

ただし余計なことは言うな。

勇気

題には「勇気」と書いたが、本文で一番はじめに書くべきは「後悔」である。

好きな人といっしょになる第一歩は、同じ時間を共に過ごすことである。それを分かっていて、しかも誘うチャンスがありながら実行できなかった。そんな後悔だ。

 

なんで、この後一緒にどうか、と一言言えなかったのか。。。

 

言い訳がましいが、たったの一言とはいえ異性を誘う文句を口にするのには、緊張して大変だ。思い切りがいる。勇気がいる。

しかしその一言があれば、片想いは大いに前進するだろう。片想いを片想いのまま終わらせるのか?「もしかしたら…迷惑かもしれない…」と勝手に自分に言い聞かせていないか?

もちろん、誘い文句を言うにしても上手い言い方というのはある。他の人が大勢いる前で言うのはおかしい。少し2人だけになったタイミングで、一言「この後空いてる?」と言えば良い。言ってしまえば後はどうにでもなるだろう。

 

何事もタイミングが重要なのは確かだ。だが、その言葉で適切なタイミングを逃してはいないか?勇気を持ったときに、はじめて適切なタイミングを作れることは結構ある。

 

後悔を作らぬために、勇気を持て。

調子

人間、失敗するときは大概調子に乗っている。頭の中で成功の兆しが現れたときに、ふと喜びや安心が生まれ、それまでの緊張感がほぐされる。と同時に、気が緩むことが多い。気が緩んだことが失敗の直接的原因になることはなくても、なぜか、調子に乗ったときにはいつも何かの失敗、不調を生ずる。これはもはや因縁的な何かで、人間が調子に乗ることが人間の不調に繋がってしまうのだろう。

 

とはいえ調子に乗ることが完全に悪いわけではない。調子に乗ると、ときに、根拠のない自信を持てる。これはいささか諸刃の剣だが、そんなハイな状態の時だからこそできることもある。特に、人前でパフォーマンスするときや何か全く新しいことにチャレンジしようというときなどは必要である。と思う。

 

では、調子に乗った時、上記のように成功する場合と因縁的に失敗する場合とでは、何がその行く末を左右するのだろうか。これはもちろん、「準備」である。いかに調子に乗らないで「準備」するか。これによって決定づけられるが、どのくらい準備すれば因縁的な失敗をせずに済むのかは、正直わからない。

 

調子に乗って失敗する最たる例は、片想いの恋愛である。はっきり言って、調子に乗った瞬間、コイツはうまくいかなくなる。なぜだろう。この現象の原因究明は早急な課題ではあるが、未だに幾つかの例を言葉にまとめることすら難しい。ひとつ挙げるとすれば、恋に準備がないからだ。いつもぶっつけ本番である。

 

恋愛とは、実に恐ろしい。

言葉の刃

言葉は時に鋭く人間に突き刺さる。そしてその人を苦しませる。だから言葉を発する人間は、言葉が人間にどんな影響を及ぼすかを想像できなければならない。しかし一人間の想像力など全く矮小なもので、周囲との相互作用なく自己完結的にまとめ上げられた想像の産物は、広く客観的に見ると全く役に立たないものとなってしまう。

 

失敗を忘れてはいけない。自分の言葉は知らぬ間に他人を傷つけることがある。傷つけようという意図なく発した言葉が、他人を傷つけることがある。これは避けられない。しかし、そのような経験を忘れてはいけない。他人を傷つけた、という結果とともに深く心に刻み、時々思い出しては後悔の念に苛まれなければならない。そのような経験の積み重ねが、言葉が他人に与える影響を想像するための種になるのだ。

 

他人を侮蔑する言葉は、自明に発せられるべきではない。いかなる場合にでも。それを言われた人間の心に、その言葉はいかなる場合でも突き刺さるからだ。時に、突き刺さっていることをポーカーフェイスでもって隠そうと、繕う人がいる。これは無駄な努力である。突き刺さった言葉は、人間にいつでも真の影響を与えうる。その言葉を発せられた時点でもう一生治らない怪我を負わされているのだ。

 

"言いたいことを言ったもの勝ち"だろうか。それは野蛮である。勝つべきは、言うべき時に言うべき言葉を言うことのできる人である。これは難しいことだが、卓越した想像力でもって言葉の影響力を深く知っているならば、それは可能である。目指すべきは、そんな言葉使いである。

命を燃やせ

明日は何処へ 行くか知らん

時の刻みは水の滴り

壁の向こうでひとりでに

壁の中で時は進む

 

我の中の進む時が 今の一部を奪って行く

知らぬ間に奪われた時は

彼方の底へ沈み 手の届かぬ星空となる

輝きはじきにうせ また知らぬ間に意識から遠のく

 

時に同じく命のかけら 剥がれて行くのは知らぬ間に

全ての恥を捨て去り行けば 剥がるるものも恐るべからず

ただのうのうと進め 命を削れ 命を燃やせ