故郷

Country roads

Lowlands

ふるさと

 

 

故郷を思う歌は多い。

 

人は、百数十万年前に誕生したとされる。山と川、広大な大地に包まれて生まれてきたはずの人類は、長い年月をかけてその知恵と行動力で生息域を全世界にまで拡大させ、その住処の環境を他のどの生物よりも効果的に、排他的に作り上げてきた。

 

生命には生きる義務が課せられている。つまりいかなる生命もその命をできる限り繋ごうとする。しかしそれは、膨大な生命が共存する世界においてそう簡単なことではない。ときには一方が死にもう一方が生き残るような、壮絶な戦いがある。そんな格闘の中で生命のdnaに刻まれた、(人間的な言葉で言うなら「向上心」とでも言おうか)排他性とも言えるような行動原理、それによって人類はその住環境の機能を拡大してきた。

それには学問、特に科学が大いなる貢献をしていることは言うまでもないだろう。そしてその行く末は今多くの人類の目の前にあるように、コンクリートのビルや車や電車といった鉄の塊であることも疑いの余地がない。人間的には、それが生命本来の行動原理に従って発展してきた証であるし、少なくない人間がそのような環境に憧憬を抱いている。

 

しかし重要なことは、人間史のうちで現代のコンクリートジャングルや動く鉄の塊が溢れている環境が支配する時代はごくごく一部にしか過ぎないと言うことだ。つまり、人間史数十万年のうち、産業革命以降のつい200年の出来事でしかない。しかもその短い期間の中で人を取り囲む環境の変わり方は何万年にも及ぶ進化の総和とも比して劣らないほどの様相を呈している。

 

一方で、人間の体の方はどうか。生命、特にヒトは驚きの適応能力を持っている。しかしその適応速度には限界がある。それは今までの周りの生物達を見れば明らかだ。

つまり現代の人間の住環境は人間の体に適していない。もっと言えば、人間を取り囲む環境に対して人間の体が圧倒的に遅れをとっている。ではなぜ適した環境に作り変えないのか?それは人間が生命だからだ。先述のように、人間の生命が従う行動原理は裏を返せば排他性であって、それは必ずしも人間の体に適した住環境を作り出すものではない。

では別視点での住環境の構築、すなわち、人間に適した住環境を求めるためにはどうすればいいか?それは故郷を見つめ直すことである。人間の生まれた故郷、それこそ人間に適した環境であったはずだ。

だからといって、数十万何前のアフリカに住めというわけではない。ただ今の住環境が重心を置き違えているということであって、じっくりと故郷を見つめ直し人間に本当に必要なものを、その高い知能で選び出し、その類を見ない行動力で実現すれば良いのだ。

 

 

"Misty taste of moonshine, teardrops in my eyes"(Country Roadsより)